本山錦織寺

真宗木辺派 本山錦織寺

 

 

真宗木辺派

 

本山 錦織寺

 

〈親鸞聖人御足跡の本山〉

 

 

◎伝教大師最澄と毘沙門天像

 

平安の昔、日本天台宗の開祖伝教大師最澄は比叡山を開かれるにあたり、その鎮守の為の像を造るに適した良質な樹木を探されていました。すると北谷にて理想的な大木を見つけることができました。ところがその木の根本には二匹の鬼がその大木を厳重に守っているのでした。
最澄は鬼にこの大木を譲るよう請いました。すると鬼は「我らは昔、仏よりあなたが訪れるまで木を守るように命じられていたのです」と言って、この大木を最澄に快く引き渡すと、鬼たちは役目を終えたとばかりに虚空へと消え去っていきました。その後最澄は、この霊木で二体の毘沙門天の像を造り比叡山中に安置しておかれました。

 

◎木辺の里と毘沙門縁起

 

それから数十年たって承和の年(西暦834〜847)のことです。
後に比叡山の第三代天台座主となられた慈覚大師円仁(794〜864)のある夜の夢に、この毘沙門天が現れて、「「江州(滋賀県)野洲の郡に一夜に松が生えてくるところがある。そこが私の縁があるところである。そこへ私を移して欲しい・・・」との夢告がありました。そこで円仁は、早速弟子に命じてその場所を探させたところ、一夜にしてその高さ八尺あまりの松が生えるという場所を発見しました。時に天安二年(858)8月3日の夜のことでした。その後円仁は、この地にお堂を建立して毘沙門天像を比叡山中より移し、自ら書いた「天安堂」という額をここに掲げられました。
それから後、このお堂の前には次第に民家が建てられていき人里ができました。
そしてこの里の名を先述の松の説話にちなんで「松の木の辺り」という意味で「木辺・きべ」(後に木部)と名乗るようになりました。

 

 

〈天安堂〉

 

 

〈毘沙門天を奉安する〉

 

◎木部の御本尊の由来

 

親鸞聖人が北関東方面のあちこちにご滞在になって、その辺り一帯に念仏の教えをお広めになっていたときのこと、あるとき霞ヶ浦のあたりで不思議な噂を耳にされました。
霞ヶ浦の湖中に光るものがあって、漁師たちが網を打ち、竿で探ってみるが捕らえる事ができずにいるということでした。親鸞聖人は昔、海に光るものがあって、それが淡路島の南岸に流れ着いたとき、聖徳太子がお拾いになったのが救世観音像であったという故事のあったことを思い起こされ、漁師たちに鐘太鼓を鳴らさせて拍子を揃え、大念仏を称えさせられながら大きな網を打たせました。そして親鸞聖人自ら網を手繰り寄せると、沈香の匂いがする金色の、身の丈一尺八寸ばかりの阿弥陀如来の坐像が揚がってきました。親鸞聖人は阿弥陀仏が教化伝導の旅をお助け下さっているしるしとお喜びになり、暫らくそこにご滞在になって多くの人々をお導きになりました。

 

 

霞ヶ浦で阿弥陀如来像を得る

 

 

〈阿弥陀堂〉

 

 

錦織寺阿弥陀堂内陣正面

 

 

親鸞聖人が霞ヶ浦で得られた

阿弥陀如来像を奉安する

 

◎木部へのご来錫

 

常陸の国を中心に二十年余のご教化は、数多くの御同朋やお弟子を生み出しましたが親鸞聖人ご自身も六十を越す歳を迎え、故郷の都(京都)へお帰りになることになりました。笈(おい){背に負う箱}には、霞ヶ浦で得られて以来持仏とされてきた阿弥陀如来像をのせ、長年暮らし親しんだ関東の地を後にされました。
 嘉禎元(1235)年4月下旬、時に親鸞聖人63歳のとき、故郷への帰路の途中に木部の地を通られた親鸞聖人は、日暮れて泊まる所を捜しておられました。と、そのとき聖人の目にお堂とその前の大きな松の木が入りました。そこで松の木に笈を掛けてお堂に一晩休まれることにしました。
 ・・・その夜のことです。親鸞聖人の夢中にお堂の主、毘沙門天が現れ、「ここに阿弥陀如来像を安置し仏法を興してほしい、私はそれをお守りします」と聖人に告げたのです。この頃の木部村の村主は石畠民部大輔という方でした。この方も同じ日の夜、夢を見ました。やはり夢の中にお堂の毘沙門天が現れて、「仏法をお教え下さる客僧がお泊りになっている。すみやかに帰依して、お教えを願うがよい」と石畠氏に告げました。石畠氏があくる朝早くにお堂の毘沙門天像を拝みに行きますと、はたして僧が堂内の像の前でお経をあげているのが目に留まりました。昨晩の夢のうちに毘沙門天が私にすすめられていた僧とはこの方であろうかと近寄り、話し掛けると自分の見た夢の話と一致しました。そこで石畠氏は聖人に、しばらくの間この木部の地におとどまり下さるようにお願いをしました。木部への滞在を決めた親鸞聖人は、そのとき以降それまでお堂の正面にあった毘沙門天像を脇壇に移し、笈から降ろした阿弥陀如来像をお堂の正面に安置して、勤行を毎日お勤めになりました。他力にして容易に往生ができるとのご法話には男女をとわず門前に市をなすほど多くの人が集まり、仏法を喜び、聖人とのご縁を喜びました。このため聖人の木部へのご滞在は数年に及びました。(錦織寺伝)

 

 

親鸞聖人が笈を掛けたと伝えられる笈掛けの松

 

 

毘沙門天が夢中に出現、木部滞在を乞う

 

◎ご満足の御影

 

親鸞聖人には「顕浄土真実教行証文類」全六巻のご述作があります。
そのうちの初めの四巻は常陸の国でお書きになっていたのですが、木部へのご滞在が長引いている間に、真佛土、化身土の二巻をお書きになりました。(錦織寺伝)嘉禎ニ年の正月下旬より書き始められ、翌年の四月の中旬に書き終えられて聖人はこう述べられました。

 

「私は源空上人がお作りになった選択集を写させていただき、ご真影を描かせていただいて以来、師のお教えのご恩を仰いでまいりました。それが愚かなる我が身をも顧みず、真宗のよってきたる先師の論や釈、経に現われたる浄土を示す文を拾ったものができあがって、満足しております」と。

 

お弟子の善性房が、

 

「これは真宗の教えの大切な肝心なところを、専修念仏の奥深きところをお示して下さっています。これをみるものは容易に悟れるでしょう、これを聞くものはすぐに信心を得るでしょう。たいへんにすばらしい、この上ないものでございます。なお願わくば聖人のお姿を描いて私どもに下付くださるなれば、私どもの喜びはさらに大きいものがございます」と再三にわたってお願い申し上げました。そこで、親鸞聖人はその気持ちを酌んで自ら真向の影像を描かれておっしゃいました。

 

「これはあなたたちの言葉にのってしまって、はずかしいことよ」。

 

いま錦織寺御影堂にご奉安しておりますのはそのときの絵姿で、「教行信証」完成のご満足の様子を描いたものということで、「満足の御影」とよんでおります。

 

 

「満足の御影」

 

 

〈御影堂〉

 

 

錦織寺御影堂須弥壇

親鸞聖人の「満足の御影」

を奉安する

 

◎寺号の由来

 

親鸞聖人が木部の地に滞在してしばらくしてのことでした。暦仁元年の七月六日の夜半のことです。お堂の上空に鼓の音がして、堂内は日中にように明るくなっていました。聖人が不思議に思い、庭に降り立ち空を見上げられていると、不意に堂内から人声がしました。不審に思い聖人がひそかに中をのぞかれると、内陣に二人の童子がいて、蓮から糸を繰り出しています。童子のそばには天女がいて機を織っており、その音がしきりにして、よい香りが堂内にみちみちていました。
 夜明けの頃になると、空には再び鼓の音がして堂内は静かになりました。聖人が内陣に入ってみられると、仏前に織物が供えてありました。それは横三尺縦一丈五尺の紫香の錦でした。村人が集まってきて感嘆してこれを拝見しました。親鸞聖人は、

 

「これは本尊の威徳を天人が讃嘆したものであろう。このようなことはかって聞いた事もない、帝におみせしよう」と、その錦を帝に献上なさいました。

 

 

天女が降り錦を織るさま

 

八十六代の四条天皇のときで、帝は感動なさって、同年八月五日に勅額を下されました。
その勅額は「天神護法錦織之寺」とあり、以来、お堂は錦織寺とよばれるようになりました。

 

 

錦織寺の正式名称

 

◎近在のご旧跡

 

親鸞聖人は錦織寺近在を御教化中に、農民の田を植えているのをご覧になって、畦に腰を掛けてやすらいながら、この方たちに仏意に縁を結ばせようとお考えになりました。そこで聖人は農民たちに向い、法語に節を付けて歌いながら田植をなさいと、光明遍照の経文をはじめとし、自らおつくりになった讃文などを田植歌として早乙女のともがらにお示しになり、お念仏の教えを平易にお教え下さいました。聖人には鍬に菰(こも)を打ちかけてお腰をかけていただき、皆は休憩のたびに聖人の御膝元に集まり、節を習い覚えるとまた田に下りて、唄い唄いつつ田植を続けました。
その光景を親鸞聖人は田の畦に座りよろこびながめられました。

 

 

田植歌で念仏を教える親鸞聖人、左端には松の枝に掛けた笈が見える

 

親鸞聖人がお教え下さった歌には次のようなものがありました。

 

    五劫思惟の苗代に なんまんだぶ
    兆載永劫の代をなし なんまんだぶ
    一念帰命の種をまき なんまんだぶ
    自力雑行の草をとり なんまんだぶ
    念念相続のみず流し なんまんだぶ
    往生の秋になりぬれば なんまんだぶ
    黄金のみとはうれしけれ なんまんだぶ
    ああもったいなや  ありがたや
       なむあみだぶつ  なむあみだぶつ

 

 この時の節は近在の各集落で歌い継がれ、今日でも集落によっては上管声明(じょうかんしょうみょう)とよぶ、独特の節を伝承しており、毎年の報恩講に集落の伝承者たちが上山して親鸞聖人の御影堂で唱和します。また、集落には親鸞聖人をご案内した家とか、親鸞聖人がお泊りになった家とかを伝え、その家は「おしょうにん」、「おしょうにんや」とよばれている。

 

このとき聖人のただびとでないことを知って村人は、聖人のお座りになっていた菰(こも)を、清らかな川に流したのですが、どういう訳かその菰は夜ごと夜ごとに川上に遡ってきて流れていきませんでした。村人は勿体ないことだとその菰を拾い上げると、今度は火で焼いてその灰を土中に埋めました。その菰を捨てた川の名を「菰捨て川」とよび、菰を焼いて灰にした土地を「やいたの河原」とよび、聖人がその際にお座りになっていた場所に、お使いになっていた杖を差しておかれたら芽が出て藤の木が生えてきたというその場所を「藤塚」とよぶなど、いずれも錦織寺近在には親鸞聖人にまつわる伝承地が今でも多く残されています。

 

「やいたの河原」

 

聖人がお使いになったこもを焼いた旧跡

 

「藤塚」

 

聖人の差した杖から芽が出たという

 

◎その後の錦織寺

 

親鸞聖人の去ったあとの錦織寺は、性信、願性、善明、愚咄、慈空と横曽根門徒の系列のかたがたによってお守りされていました。
そこへ親鸞聖人の玄孫存覚上人はたびたび来寺して本尊の裏書きなど本山としての活動をされ、子の綱厳を慈観と改め、住職に据えました。そこで錦織寺は、親鸞聖人を開山として如信、覚如、存覚と血脈と法脈一致を図りました。
慈観上人は存覚上人の「六要鈔」を書き残しています。これは「教行信証」の重要な注釈書です。その孫の慈賢上人は「現世利益和讃抄」という注釈書を残しています。
天正元年には門跡寺院となり菊紋の使用が許可されました。

 

 

四代 存覚上人

 

 

五代 慈観上人

 

◎明治以降の宗勢

 

明治二十九年西本願寺明如上人の次男が十五才で入寺して孝慈と名乗りました。
孝慈上人は大正から昭和の初期に大活躍をされて、九州各地、広島、北海道などにご縁を慕って多くの寺院が誕生し、今日の真宗木辺派の宗勢を形成しています。

 

 

二十代 大興孝慈上人

 

※この本山錦織寺の紹介ページは、本山錦織寺発行の「親鸞聖人御足跡の本山錦織寺」に掲載されている写真と文をもとに、宝樹寺住職が本山錦織寺の了承を得た上で、それらを転載及び引用して個人的に作成し、公開しているものであります。